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​MISSION AND HISTORY  烏山 武臣(かやま たけおみ)

 私は、昭和26年に進学の為上京した。

 当時、東京には母校である五島高等学校の同窓会は組織されておらず、山田伊佐雄氏(現東京石城会名誉会長)が五島学生会を組織し、自ら会長となつて、在京学生の悩みとなつていた高額な下宿代、間借り代の解消を計るべく五島学生寮建設を企画し、これに呼応した学生達が五島全域の町村長を説得、又、長崎県内はじめ全国に散在する先輩、知人、企業を訪問して建設資金の調達運動を展開していた。私も僅かな期間ではあったがこの運動に参加している。しかしリーダーである山田伊佐雄氏が、大学卒業後は此の運動を継承する者が無く、残念ながら此の計画は頓挫して終ったのである。一方の学生会もその後数年を経過した後、自然消滅の形となっている。しかし時は敗戦以来僅か5・6年を経過した時代であり、日本の復興の為政府、国民が懸命になつて奮闘していた時代である。若く、ひよわな学生達によるこの企画はあまりにも膨大で荷重なものであったし、実現をみなかったのは、仕方なかったと言えるのである。その事を云々する前に、往時の学生達の気質の一面を垣間見る思いで大いに喝采を挙げながら特筆しておきたい。

 前述した通り東京に於ける同窓会の存在はなかったが、戦前から一部の人々による親睦的な集いはあった様である。ただそれは組織されたものでなかった為に残念ながら実体を識る事は出来ない。 現在の形態となつて開催される様になったのは、昭和32年に野原勇吉氏(五中12回卒)大石静子女史(旧姓小林)(五高女9回卒)を夫々男女の会長に選出、山田裕稔氏(五中37回卒)飯田貞子女史(旧姓山下)(五高女24回卒)を両名を幹事長として発足したのが、最初となった様である。 会長・幹事長を五島中学、五島高女出身者から各々選出したのは後輩となる五島高等学校が男女共学となつており将来の形態に備える為の配慮といえるのである。以来昭和52年迄は総会開催は3年ないし5年間隔であり単なる親睦会の域を出ていない。

 昭和53年に会長播本格一氏(五中24回卒)大石静子女子、幹事長山田伊佐雄氏(五中44回卒)飯田貞子が選出されこの時初めて組織名を東京石城会と名乗り五島高校卒業生の積極的な参加を促す形となっている。

 昭和58年に松島喜佐雄氏(五中28回卒)が就任、松原剛氏(五中28回卒)安間美佐女史(旧姓富井)(五高女29回卒)等が補佐して活躍されている。当時の総会出席者は70~80名程度であり、決して盛大とは言い難い状況であつた。 

 昭和61年に会長山田伊佐雄氏、幹事長安間美佐女史、不肖烏山(五高3回卒)も加って運営に携わる事となったが、私の幹事長就任は、五島高校卒業生として始めての事であつた。

 昭和63年には、東京石城会として初の会員名簿が作成されている。その名簿によって首都圏内に五島中学卒業生85名、五島高女卒業生97名、五島高校卒業生八114名、岐宿・富江・奈留等各分校の卒業生156名、計1152名の存在が確認されたのである、しかし当時の総会出席者は五島中学卒業生48名、五島高女卒業生18名五島高校卒業生44名、計110名となっており、五島中学卒業生及び、五島高女卒業生と五島高校卒業生の出席者数がようやく括抗する形になってきているが、名簿に記載されている会員数からみると僅か1割弱の出席者数である事が確認出来る。

 平成4年に私は東京五島会の運営に携わる事となり、石城会の執行部から離脱する事となったが、山田伊佐雄氏は平成12年迄実に14年間にわたつて会長職にあり学校創立百周年記念事業に拘る募金運動を成功させ勇退されている。この間豆谷健二氏 (五高4回卒)由利英樹氏(五高15回卒)が幹事長として補佐されている。

 平成13年に内海紀雄氏(五高12回卒)が会長に就任、久保祐二氏 (五高15回卒)が幹事長を担当する事となつた。此処に至って東京石城会は急速な若返りの時代を迎えたのである。当然な事に総会出席者は圧倒的に五島高校卒業者が占め、五島中学卒業生の参加者は毎年減少、五島高女卒業生に至っては出席者皆無に近い状態となっている。 内海会長は母校の創立百周年記会祝典に於いて校長はじめ教職員、在校生は勿論、多くの来賓を前に朝日新聞社代表取締役として記念講演を行っており、また母校のグランドに松の植樹運働を展開、最近では学校側の要請もあり在京会員の経営する企業に、生徒を訪問研修の楓会を与える等数々の貢献をされてきた。

 その内海会長が平成19年勇退する事となり後任会長に今村勇雄氏(五高19回卒)が就任される事となった、また高橋徹氏(21回卒)が副会長として補佐する事となった。そして平成24年から高橋徹氏が会長に就任し東京石城会は今後更に若返りを目指す事となるのである。 此処数年総会出席者は170名前後に留っている。高齢者の出席が急速に減少しつつあり、これを補う若い世代の出席者が一向に伸びないのが実情といえよう。

 母校、長崎県立五島高等学校は、今や県下有数の進学校として君臨しており、又スポーツ面での活躍も目覚ましく、正に文武両道の学びの道を進む模範的な高校に成長して居ります。 特に在学生諸君の礼義の正しさは五島高校を訪問する人をして驚異と瞳目を得ており、若年層に素行上、種々と問題が多い昨今、如何にしてあの様な躾が出来るのかと異口同音に賛辞を寄せられており、お陰をもって私共先輩は鼻高々と胸を張る思いをさせて頂いております。向後の東京石城会は高橋徹会長の下で優秀な後輩諸君を結集して盤石な運営を営んでいく事でしょう。

※一部加筆

SCHOOL SONG

『長崎県立五島高等女学校校歌』

一、

潮の花も 咲きにほふ

値賀の浦曲の学び舎に

真澄の鏡 くもりなく

照らすが如く うるはしく

光をおのが 身にしめて

心の花も 咲かせなむ

 

二、

島のまほらに富士に似て

雄々しくたてる翁頭の

高き姿をめざしつつ

文の林のおくふかく

わけて進まばおのづから

智の道も開けなむ

 

三、

勅語かしこみ朝にけに

まもるみさをの玉だすき

かけて磨かむみがきなば

かしこけれども眼にみえぬ

神の心にかよひつつ

かぐはしき実も結びなむ

 

作詞_豊田 亨 

作曲_橋本 國彦

 

『長崎県立五島中学校校歌』

一、

朝日ぞ匂ふ 値賀の浦

山紫に 連なりて

水うるはしく 澄むところ

そこに聳ゆる わが校舎

校運栄え いや栄え

校風高く いや高く

 

二、

見ずや古城の石壁に

歴史の光輝くを

見ずや緑の松が枝に

希望の色のしたたるを

嗚呼此の光此の色ぞ

これが我が校の誇りなる

 

三、

東海の波雲を呑む

これ雄渾の心なり

翁頭の山天を摩す

これ剛健の姿なり

嗚呼此の心此の姿

これが我が校の本領ぞ

 

四、

起きてや四百の健男子

正義の焼刃胸に研ぎ

知識の鍵を手にとりて

身を鉄ときたへつつ

進めたゆまず勇ましく

進みてつくせ国の為

 

五、

功成り其の名遂げて後

地図に五島を指して

我等はここに学びぬと

世界は誇れかくてこそ

松の緑のとことはに

光を添へめ石田城

 

作詞_佐々木 信香

 

『長崎県立五島高等学校校歌』

一、

海よりのぼる 朝日子の

光あまねき 島の幸

清明ここに 学びつつ

開けわれらの 窓々を

理想はたかし 翁頭の

山のみどりぞ 常に呼ぶ

 

二、

古城の跡の 夢ならで

さめよと叫ぶ 松の音

強健ここに 鍛へつつ

奮えわれらの 胸張りて

立てば荒磯の 風と来る

清き試練の 汐しぶき

 

 

 

 


三、

値賀の浦波 はろばろと

世界をつなぐ 常凪の

誠心ここに 修めつつ

あげよわれらの若き手を

学園の幸 満ちてくる

聞け黒潮の 愛の歌

 

作詞_中島 哀浪

作曲_松尾 政彦

 

 

 

 

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